【岡村本家】鈴鹿山系の豊富な名水と近江米にこだわる地元第一主義のお酒造りが話題に

岡村本家の酒蔵は江戸時代からの歴史を感じる建築物。

㈱岡村本家創業の歴史は幕末期にまでさかのぼります。当時彦根(ひこね)藩主で、江戸幕府では大老をつとめた井伊直弼(いいなおすけ)公から、初代がお酒造りの命を受けて創業しました。

岡村本家の酒蔵※の場所は、鈴鹿山系の豊富な名水が湧き、稲作に適しているため、お酒造りにも最適な地です。
※酒蔵・・・お酒を製造したり、貯蔵したりする蔵のことを指します。

”地元第一主義”にこだわる岡村本家のお酒は近江の魅力が詰まっています。今回は2009年から6代目に就任した、岡村 博之社長にお話をうかがいました。

株式会社 岡村本家 6代目

岡村 博之社長

大老・井伊直弼公の命でお酒造りを創業

──まず岡村本家の歴史から教えてください。

岡村 博之社長(以下、岡村社長)  創業は1854年(安政元年)、今年で169年目を迎えます。岡村家は創業以前から井伊家に仕えていました。

近江・彦根藩の第16代藩主、幕末期の江戸幕府で大老をつとめた、井伊直弼公から、初代がお酒造りを命じられたのです。

そこで彦根藩の領内で2年間の歳月をかけて、お酒造りで環境がいい場所を探してこの地に移住してきました。

この酒蔵のある地名は「豊郷町(とよさとちょう)吉田」ですが、もともとは「善田」と書いていたようで、その名のとおり、お米作りが盛んで良質米作りに適した場所です。

※井伊家と彦根藩・・・近江国の北部を領有した藩。井伊家の先祖は、家康を支えた徳川四天王の一人で、譜代大名では筆頭の格式を持つ。幕末では井伊直弼が大老に就任、幕政の立て直しに、安政の大獄を断行。しかし、反発を招き、1860年(万延元年)に桜田門外の変で暗殺された。

「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵 (出典: Wikipedia)

名水100選と同様の水質が大きな武器に

創業以来、枯らさない井戸が大きな武器に(提供:㈱岡村本家)

──次にお酒造りにおけるお水の役割はどう思われていますか。

岡村社長 お酒とお水はセットです。お酒造りにあたり、
「彦根藩の領土内」「良質米の産地」「豊富な水」「環境のいい冷え込むところ」
が、お酒造りで大切な条件で、この地を酒蔵とした経緯があります。

この酒蔵では井戸が3本あり、170年間近く一度も枯れたことがない豊富な名水に恵まれています。

この「吉田」の近辺には、豆腐屋、お菓子屋などお水にかかわる商売をされていた店があったと聞いております。周辺には川が3つあり、昔から良質なお水に恵まれていました。

お酒造りの工程にお水はすべて必要で、この4つの条件にマッチした土地を選んだのでしょう。このお水があるのはありがたいです。

滋賀県には名水100選に選ばれた井戸があり、水質を測ると岡村本家の井戸のお水とほとんど同じデーターでした。

鈴鹿山脈からの伏流水は弱硬水

鈴鹿山脈

──どのようなお水を使用されていますか。

岡村社長 三重と滋賀の県境に延びる鈴鹿山脈からの伏流水(ふくりゅうすい)※を使用しています。特徴は、やや硬水よりの弱硬水。飲みやすく、深みがあります。※伏流水・・・水がしみ込みやすい土地を川が流れると、水が地中にもぐりこんで流れます。 この水のことを伏流水といいます。

軟水と比較して味は出やすいです。ただ、仕込みの方法でお酒の味わいは変化しますが、岡村本家では、お水の良さをそのまま活かしています。

近江米「吟吹雪」「玉栄」と地元への回帰

──お水以外にもこだわりはあると思いますが、いかがでしょうか。

岡村社長 初代は間違いなく創業の地のお米の良さにほれ込んで、お酒造りを決意したことでしょう。

ただし私が実家に帰った30年前は価格競争が激しかった。つまり品質が良いお酒よりも、なるべく安いお酒の方を求められていた時のことです。

そこで岡村本家も安い県外の酒米(さかまい)※を使用していた時代がありました。※酒米・・・日本酒の原料として使われるために作られたお米です。

滋賀県の酒蔵は、京都(伏見)や兵庫(灘)からも近いため、大手酒蔵の下請けの役割を担い、お米を選ばず生産して、そのまま売った時代もあったのです。

今から169年前にこの地で酒蔵を創業した理由を考え直したときに、近江米を栽培される農家もたくさんおられたことに気づきました。

以前は季節杜氏(きせつとうじ)※や蔵人(くらびと)※の方に来てもらいましたが、現在はお酒造りの技術者も地元の方に代わったこともあり、地元の農家と契約栽培を結び、お酒造りをしています。

※杜氏・・・お酒造りの最高責任者で、杜氏の下で働く蔵人(くらびと)を管理・監督します。昔は冬限定で酒蔵に出稼ぎに来る季節杜氏が主流でした。
※蔵人・・・杜氏と呼ばれる日本酒造りの最高責任者のもと、日本酒造りに従事する人を指します。

──使われている酒米を教えてください。

岡村社長 全量滋賀県の農家と契約栽培をしていますが、滋賀県発祥の「吟吹雪(ぎんふぶき)」と「玉栄(たまさかえ)」を中心に8種類を使っています。ほかにも滋賀県では滋賀渡船(しがわたりぶね)といういい酒米もあります。

ただし低精米のお酒は、あえて飯米(はんまい)※を使っています。酒米はすっきり香りのあるお酒が出来上がります。しかし、飯米はコクがあり味が出やすいのです。
※飯米・・・日常の食用としているお米。

飯米で使用しているお米は、日本晴(にっぽんばれ)※、コシヒカリ、キヌヒカリ※、みずかがみ※を中心に醸造します。

※日本晴・・・日本全国の作付面積の第1位であった時代がある。主要栽培地は滋賀県など。
※キヌヒカリ・・・食味もコシヒカリと同程度。主な生産地は近畿圏内。
※みずかがみ・・・滋賀県発祥の銘柄。一般公募により命名され、「みず」は「豊かな水源・琵琶湖」を、「かがみ」は「作り手の真心がそのままお米に反映している」という意味が込められている。

この20年間での滋賀県の酒蔵は、県産の「山田錦」、「吟吹雪」、「滋賀渡船」でお酒を生産する動きになっています。

──商品には「金亀」「大星」と名付けていますね。

岡村社長 中心の商品としては、「金亀」「大星」があります。以前清酒は酒税法により、「特級」「一級」「二級」など等級制度が存在した時代には、「金亀」が一級で、「大星」が二級酒でした。

決して大きな酒蔵ではありませんので2種類の商品を育てるのが難しいこともあり、今は、「金亀」を中心に商品展開しています。

ちなみに「大星」の「星」には、近江商人(おうみしょうにん)※にゆかりがあります。近江商人は、朝、まだ星のあるうちに家を出て、夜、星をいただいてまじめに働くという、勤勉と忍耐の商売を行っていました。
※近江商人・・・中世から近代にかけて活動した近江国出身の商人。大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つ。

ですから滋賀県は、「星」とつける会社が多く、この「大星」も近江商人からつけた商品です。

実はもともとの会社名は、「大星岡村本家」でしたが、株式会社化する際は、社名が長いということで岡村本家とした経緯があります。

看板商品はビンの色と精米歩合で工夫を凝らす

黒F20、緑F30、藍40、黒50、緑60、茶70、白80、青90、赤 玄米。ビンの色と精米歩合で工夫を凝らした商品展開が話題に。(提供:㈱岡村本家)

──商品名それぞれに思い入れがあるのですね。今、看板商品として力を入れている商品はなんでしょうか。

岡村社長 岡村本家の看板商品は「長寿金亀シリーズ」。ビンの色と精米歩合に変化を持たせ、今は精米20~玄米の100まで10%刻みでのお酒を造っています。

純米造りの生原酒ですと、「黒F20、緑F30、藍40、黒50、緑60、茶70、白80、青90、玄米(100)」とシリーズ化。この数字の意味は、精米歩合(せいまいぶあい)※です。
※精米歩合・・・精米(玄米から表層部を削ったお米)して残った米の割合を%で表したもの。

つまり、100は玄米そのままですが、70であれば30%削って70%のお米で造ったお酒で、それを色で表しています。ビンの色と精米歩合を覚えてもらおうという商品展開です。

ビンの色と精米歩合(提供:㈱岡村本家)

私は精米歩合が低い低精白※が好みです。今は全国平均すると精米歩合60%の時代。しかし、父からは40~50年前は80%が主流と聞いておりました。
※精白・・・お米を磨いて白くすることで、その割合を精白度といいます。

そこで昔風の80%の精米歩合を一度つくってみると、味があり、うま味が豊かなお酒が出来上がりました。

「長寿金亀シリーズ」は約20年前から造り続けていますが、低精白も再発見でき、高精白にもチャレンジできました。

酒米を磨くよさもあり、磨かない良さもあり、最終的にまったく磨かない玄米のお酒を造っています。

技術者も地元第一に雇用

──お酒造りには技術者は欠かせませんが、むかしと今ではどう違いがあるのでしょうか。

岡村社長 能登杜氏※の方が親子2代にわたり100年間近く来ていただきました。
※能登杜氏・・・日本酒を造る代表的な杜氏集団の一つ。石川県能登半島の先端付近、珠洲市や内浦町を発祥地とする。杜氏の流派として捉えたときには能登流(のとりゅう)と称され、味の濃い酒質を製成酒の特徴とすると一般に言われる。

滋賀県の酒蔵には地理的要因もありますが、能登杜氏が多いです。今でも能登杜氏組合があり、勉強会などを開催し、私どもの杜氏も参加しています。

8年間、先代の杜氏の指導を得て、地元滋賀出身者が今は杜氏となっています。季節杜氏から社員制に変更しています。

もともと日本海側の方が多く、冬場にはこちらで杜氏や蔵人として働き、夏には地元で農業、漁業の仕事に戻っていく働き方でした。

ただ、先代の杜氏からは、「次の世代はもう来ないよ」と言われていましたので、地元で杜氏を育てたのです。

以前は杜氏・蔵人が8人体制で蔵入りし、お酒造りに来て、10月~2月の冬の時期に1年分のお酒を造っていました。

またこれまでお酒造りが始まる10~12月の季節は、最も販売も忙しい時期でこれはなかなか大変でした。

今は9月~翌年6月まで仕込みができるようになり、これから杜氏と1年中お酒を造る体制に持っていこうという話をしています。

後継ぎになった岡村社長の決断

酒蔵も見学できる

──酒蔵の経営は大変で廃業も多いです。その中で後継ぎになる決断をされた動機は何かあったのでしょうか。

岡村社長 実は私は三男でもともと継ぐ予定はなかったのです。私は、兄が継ぐと想定し、大学卒業後はアルコール会社に進路を決めていました。

父があるとき、兄弟全員を呼んだときのことです。
父は、「実は酒蔵を辞めようと思っている」と語りました。この時期、日本酒の販売は不振で設備も老朽化し、社員も高齢化した時期です。

さらに、「それでもこの3人のうち誰かが続けたいのであれば続けようと思っている」という気持ちも明かしました。

実は、兄は建築関係、次男は放送関係とまったく異なる進路を選択していました。兄が給料も安定しているし今の仕事も面白いということで継がないと言われたことはショックでした。

それで私に意見を求められましたが、「急に言われてもわからない」と答え、話し合っていく中で、一度は就職しました。
しかし最終的には私が継ぐことになります。

母の一言「帰ってくるなら、今」が後押し

──決断の後を押した逸話がありますか。

岡村社長 就職して1年頃、私の母から当時住んでいたアパートに電話があり、いきなり「このままだと悔いが残るだろう。帰ってくるなら今だよ」と説得したのです。そこでサラリーマンを辞めて、後継ぎになる決断をしました。

実は父が実家に帰った頃は滋賀県内には、酒蔵は120件位ありましたが、30年前には64件に減り、今、滋賀県酒造組合に加入している酒蔵は32件とさらに半数と減少しています。

日本酒やアルコールを飲まれる方は間違いなく減少しており、大変ではあります。

──今、日本酒は世界的に輸出していますが、今はどちらの国への輸出が盛んですか。

岡村社長 当初はヨーロッパが中心でしたが、今は中国・香港・台湾などアジアが増え15か国にも拡大しています。

酒蔵見学や酒蔵祭りを開催し、ブランドの周知を

──今は酒蔵見学も盛んに行っていらっしゃいますね。

酒母、もろみの醸造を行う蔵を仕込蔵という

岡村社長 実家に帰ったとき、いろんな資料を見て、あらためて日本酒の販売不振であることに気が付き、営業を強化するしかないと考えました。

地元で営業していくと、最後に必ず、「これはいくらになるんですか」と言われました。昔は「一級」「二級」のお酒しかありませんでしたから、価格も決まっていたのです。

要するに「いくら安くなるか」という話ばかりでした。定価があってないような商売をしていましたので、私は父に売りに行く営業はやめて酒蔵見学を行い、日本酒や酒蔵や地域の良さを伝えたいと頼み込みました。

父は、「酒屋や飲食店との関係が悪くなるからやめた方がいい」と反対だったのです。それでもあえて酒蔵見学を行い、コロナ前は年間12万人の来訪がありました。

歴史や設備も見てもらって最後に試飲コーナーがあり、気に入ってもらったら購入してもらうスタイルでやっています。

私はこの見学で多くのお客様からいろいろなことを教えて頂き、その教えから、商品や酒蔵の改装、地域の取組を行ってきました。これからも、皆様の楽しい生活の一助になるような取組みを考え、いろいろな方と話をして行きたいと思っています。

株式会社 岡村本家

〒529-1165 滋賀県犬上郡豊郷町吉田100番地
TEL:0749-35-2538
FAX:0749-35-3500

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