地下から湧く霊水「宝の水」に注目。保科正之公が篤く信仰し、神秘な森に鎮座する磐椅神社

磐椅神社(いわはしじんじゃ)は、福島県の中心部に位置する磐梯山のふもと猪苗代町に鎮座し、人々から「いわきさま」と呼ばれ親しまれています。

歴史上の人物で会津藩祖・保科正之公(ほしな まさゆき)※から篤く信仰されたことでも知られています。この神社は一時荒廃していましたが、宮司・伊東政則さん(17代)が見事に復興させました。

復興の際、本殿脇に「宝の水」という霊水が地下から湧き、「これは神様のお恵みと霊験あらたかなお水」という方もいます。

今回は、磐椅神社の宮司・伊東政則さん(17代)、禰宜・伊東隆裕さん(18代)からお話をうかがいました。

磐椅神社の宮司

伊東 政則さん

磐椅神社の禰宜

伊東 隆裕さん

武内宿禰が神を磐梯山頂上に祭ったことから始まる

——磐椅神社の歴史を教えてください。

伊東政則さん(以下、伊東宮司) 約1750年前、応神天皇(古墳時代)の勅使である武内宿禰(タケウチノスクネ)がお見えになり、大山祇神(オオヤマツミ)と埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)を磐梯山(ばんだいさん)の頂上に祭ったことが始まりとされています。

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戦時中、武内宿禰画の肖像画はお札になった
用語解説

※磐梯山・・・福島県猪苗代町、磐梯町、北塩原村にまたがる1816mの活火山。会津盆地側からは、綺麗な三角の頂が見えることから会津富士と呼ばれる。

※応神天皇・・・歴史書によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、中世以降は軍神八幡神としても信奉された。実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。

※勅使・・・天皇が勅旨を伝えるために派遣した使者を指す。勅旨とは天皇の命令書などをいう。

※武内宿禰・・・景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代~第16代)の各天皇に仕えた、古代日本の伝説上の人物。蘇我氏など各有力氏族の祖先とされる。大臣の位につき、各天皇を補佐した記録が残る。

※大山祇神・・・山岳丘陵の守護神であり、山の樹木が雨水を涵養することから水源・水利の神でもある。一般的には山の神を指す。

※埴山姫命・・・土の神、土壌の神、肥料の神、農業神として祀られるほか、陶芸の神、鎮火の神、土木工事や造園工事の守護神。

伊東宮司 会津地方は、当時開発が遅れた地域でした。国土開発の神様を祭ることで、開発を進めたいという想いがあったのでしょう。

磐梯山は岩肌に覆われ、雲に覆われていました。里の人にとっては天に向かってそびえ立つ、岩の梯子(はしご)のような山であったのです。

その頂上にお参りに行くことから、自然と磐椅神社と呼ばれるようになりました。

保科正之公は磐椅神社を篤く信仰したという

(左から) 磐椅神社の宮司・伊東政則さん(17代)、禰宜・伊東隆裕さん(18代)

——歴史上の人物である保科正之公の信仰も篤かったとうかがいました。

伊東宮司 磐椅神社は磐梯山の頂上から時代を経て、ふもとの現在の場所に遷りました。おっしゃる通り、保科正之公※は磐椅神社への信仰が大変篤かったのです。

保科 正之公(ほしなまさゆき)とは

会津藩祖・保科正之公

江戸幕府初代将軍徳川家康の孫、二代将軍秀忠の子にあたる。
3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。
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正之公は初代会津藩主※で、藩政を司る鶴ヶ城※から見て、磐椅神社は鬼門(北東)※に当たるのです。

※鬼門・・・古くから北東の方位を「鬼門」といい、鬼が出入りする方角とされ、万事に忌むべき不吉な方角とされてきた。
※鶴ヶ城・・・福島県会津若松市にある城跡。現在の天守は復元であり、若松城跡として国の史跡に指定された。

伊東宮司 正之公は、「我死せば、磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」との遺言書を残し、末社として当社西側に土津神社※が造営されました。

正之公は、この土津神社の奥の院に眠られています。その後、磐椅神社は最も位の高い、神階・正一位※を授かっています。

※土津神社・・・1675 (延宝3年)に福島県猪苗代町に創建された神社。主祭神は保科正之公(土津霊神)。
※正一位・・・この場合、神社に与えられる神位のうちの最高位を指す。

宮司自らが荒れ果てた磐椅神社を再建

宮司自ら土台の修復工事をする様子

——ところで、格が高い磐椅神社でも荒れ果てた時期があったようですね。

伊東宮司 まず今の神社のことを説明しましょう。

現在、日本全国には約8万の神社がありますが、神職は約2万人程度です。
必然的に、1人の神職が複数の神社の宮司を兼務しているのが現状です。

私の父も磐椅神社の宮司をつとめるとともに、各地集落の50の神社の宮司を兼ねていました。

専属の神職がおらず、別に本務社を持った神職が社務を兼任している神社のことを「兼務社(けんむしゃ)」といいます。

なので、父も磐椅神社のことばかり考えている状況ではなかったのです。

私も若い時代はともかく年齢を重ねるにつれて、歴史を重ねた神社ですから責任感を持つようになりました。当時、38歳で後継者となる決断をしたのです。

伊佐須美神社の宮司の言葉が再建のヒントに

鳥居の建設

——その後、神職を養成する大学に行かれたのですか。

伊東宮司 当時、私も仕事をしていましたし、学校に通学する余裕はありません。また1ヵ月研修もあり、仕事を1ヵ月丸々休むことも現実的ではありませんでした。

そこで「一般財団法人 大阪国学院」という、日本唯一の通信教育による神職養成機関を受講し、その後サラリーマンを退職、神職の資格を取得しました。

一般財団法人 大阪国学院

神職は僧侶と同様、修業が必要になります。私は伊佐須美神社※で修業しましたが、当時の宮司は神社を発展させる手腕は素晴らしく参考になりました。

※伊佐須美神社・・・第10代崇神天皇(3世紀前半から中盤)の時に派遣された北陸道を進んだ将軍と東海道を進んだ将軍が会津で会ったことでこの地名が生まれたとされる。2人の将軍が国家鎮護神を祀ったのが神社の起こりとされる。古くから会津地方は大和王権の支配下であった裏付けとなる重要な意味を持つ神社であることが分かる。

伊東宮司 当時、神社には「水」「光」「音」が無ければ発展しないという助言を頂きました。

当時の磐椅神社にはいずれも無かったのです。この3つを揃えることが再建のはじめと心得ました。

霊水「宝の水」誕生の秘話

自噴している霊水「宝の水」

——本媒体である「ミズテル」は水にフォーカスしています。この「宝の水」と磐椅神社の関りについてうかがいたいです。

伊東宮司 まず昔の磐椅神社は、「手水」※がありませんでした。

※手水・・・神社や寺院において参拝前に手や口を清める水を指す。

23mほどボーリング(掘削機器で大地に錐のように穴を開けること)をして掘ってみたら、自然と水が湧きました。今でも、神様のお恵みだと思っています。

ボーリング業者の方に聞いたところ、「水が一度自噴したら止めることはできない」といわれました。神社の本殿の脇から水が湧いたので、私は「宝の水」と名付けました。

水量は毎分20ℓ、水温は10度弱です。夏に飲むとひんやりとして冬には温かくまろやかな水です。

「会津名水紀行三十選」に選ばれたり、一般の応募から決めた「選定ふくしまの水文化」の中で「特に後世に伝えたいふくしまの水文化」に選ばれたりしました。

杉の大木は磐椅神社の象徴

50年前は、杉の大木が2本そびえ立っていた

——神社には大きな杉も目立ちますね。

伊東宮司 実は神社の正面にある杉の大木は、2本あったのです。

向かって左側の杉の木は落雷で中が空洞になり、枯れてしまいました。今は片方しか残っていません。

その頃、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』※のロケをやっていました。

NHK局員が下見に来られたときは2本とも健在。ロケが始まった時には片方の杉の木しかなかったので、当時の新聞に「鳥居杉も独眼になった」と掲載されました。

※『独眼竜政宗』・・・1987年1月4日から12月13日まで放送されたNHK大河ドラマ第25作。仙台藩62万石の礎を一代で築いた奥州の戦国武将・伊達政宗の生涯を描いた。

伊東宮司 1本残った鳥居杉の上の方に、山桜が咲くようになりました。杉の木に桜が縁を結んだということで、私は「えんむすび桜」と名付けました。

鳥居杉に桜が縁を結んだということで「えんむすび桜」と名付けた

伊東宮司 会津地域には鶴ヶ城公園の桜をはじめ、桜の名所がたくさんあります。

その中でも特に「会津五桜」が有名で、いずれも満開時には素晴らしい景観となります。そのうちの一つに磐椅神社境内にある「大鹿桜」があるんです。

1000年桜を次世代に残すクラファン実施

「大鹿桜」全景

伊東宮司 花の開花時は白色で、その後ピンク色に変わります。

最後に鹿の色に似ることから、「大鹿桜」と呼ばれているのです。村上天皇※の勅使が947年(天暦元年)に奉納され、今の大鹿桜はその子孫と伝えられています。

※村上天皇・・・関白藤原忠平の死後,関白を置かず、天皇親政を行った。平安文化を開花させ、その治世は、「天暦の治」と評された

伊東宮司 福島県緑の文化財登録第1号で、猪苗代町の指定天然記念物です。桜が咲く時期には、東京の旅行会社がツアーを組んで会津五桜を観光するコースがあります。

ところが大鹿桜も老木になり、栄養を与えるための樹勢回復や支柱の修復などに取り組むことになりました。

そこで7月中旬から8月まで、レディーフォーでクラウドファンディングを実施。多くの方から温かい支援を受けられたことは大変光栄に思っています。

千年続く大鹿桜を次の世代に残したい!そのための第一歩にご支援を

クラウドファンディング「READYFOR

伊東宮司 このクラウドファンディングは、私の息子であり禰宜(ねぎ)の職にある伊東隆裕が中心に動きました。大鹿桜を、今後4~5年ほどかけて復活させたいです。

※禰宜・・・神職の職称の一つで、宮司を補佐する。なお宮司とは、神社を統括する者。

伊東宮司 ちなみに大鹿桜やえんむすび桜が咲く4月中旬〜5月上旬は、「桜まつり」を開催しています。

またNHK大河ドラマの話になりますが、『八重の桜』※のオープニングに登場した石部桜、伊佐須美神社の薄墨桜などとともに、会津五桜の一つとして大鹿桜が紹介されています。

※八重の桜・・・2013年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ第52作。主演は綾瀬はるかさん。福島県会津出身で、同志社を創設した新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた。

土木や水道工事の経験を再建に活かす

Cap:今は御朱印ブームで神社を訪問される方も多いという(えんむすび桜御朱印)

——それにしても一般人が土木技術を活用して、神社を復興させることは難しいと思いますが。

伊東宮司 私は工業高校を卒業し、水道工事や建設業を活かした仕事に従事していました。

現在の社殿前に立つ真っ赤な鳥居は、私が作りました。私は水道工事の経験があるため、パイプ工事は得意。水道用の塩化ビニールのパイプを活用し、耐震性のある鳥居を自作したのです。

妻と二人三脚で造れるものは、ほぼすべて自作しました。例えば神社の土台となる石垣も崩れていたので、石を積み直し修復しました。

東日本大震災では灯篭(とうろう)も倒れました。そこで除雪用のローダーにチェーンブロックをつけ灯篭を揚げて、元に戻したこともあります。

私は土木だけではなく大工仕事も好きだったんですよ。神社で使う神具、賽銭箱も自作で、土木、水道工事、大工仕事もすべて行い、神社を再建しました。

後継者として、今後も新しい取り組みにチャレンジ

縁結びに願いを込めて鳥居杉に結ばれた五円玉

——また、禰宜はどのような経緯で神社の後継者になられる決心をされたのですか。

伊東宮司 私と同様、2年間通信教育で学び、神職の資格を取得しました。

私は父の後を継ぎ、磐椅神社のほか50社の神社を兼務。氏子(うじこ)※さんもおり生計は建てられる見通しがついたので、サラリーマンを退職し、神職の道に入りました。

※氏子・・・神社と同じ地域に住み、その地の氏神を信仰する人たち

息子も、親の背中を見て神職の道に進むことを決意したと思います。

——今度は息子さんに伺いたいですが、後継者になられた動機とはどこにあったのでしょうか。

伊東隆裕さん(以下、伊東禰宜) 私以外に継ぐ人がいないのと、父の背中を見て神職を継ぐことを決心していました。

しかし生計を立てることが大切ですから、民間企業に勤務しつつ、磐椅神社禰宜という二足の草鞋を履いています。

今、全国の神社の後継者問題は生計が立つか立たないかに起因するものが大きいです。

学校の先生や役所職員など、なにか別の仕事を兼ねる方が多いのが実情です。私としては家族の協力に感謝しております。

大鹿桜御朱印

——クラウドファンディングによる「大鹿桜」を、次世代に残す取り組みは非常に革新的だと思いました。

伊東禰宜 福島県内全般に言えることですが、ちょうど神社も代替わりが行われ、若い神職らがイベント開催で神社に人を集め、クラウドファンディングを行うところも出てきています。

また月替わり御朱印を提供したり、境内でマルシェなどを開いたりする神社も増えています。

神社とは地域の中心であり、お祭り・賑わいをもたらすのです。そこで商店街や地元団体と連携をしている神社もあります。

今、神社同士で横の連携が活発化し、「これなら私の神社でもできるかも」と成功体験を共有し、励ましあっているのです。

神社に関心を持ってもらうようなイベントを開催していますが、これが正解というのはありません。今は試行錯誤している段階で、今後はもっと色々な方に磐椅神社を知って頂く取組みを行っていきます。

磐椅神社
〒969‐3102 福島県猪苗代町字西峰6199
TEL・FAX:0242-62-4109

この記事の執筆者

長井 雄一朗

建設業界30年間勤務後、セミリタイアで退職し、個人事業主として独立。 フリーライターとして建設・経済・働き方改革などについて執筆し、 現在インタビューライターで活動中。

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